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概略

戦国大名・織田信長は天下統一を目指しましたがどんな人物だったのでしょう

1534年【旧暦・天文3年5月12日】尾張(愛知県)の那古野城で織田信秀の二
男として生まれました。

父の信秀は三河(愛知県)の松平氏・美濃(岐阜県)の斎藤氏・駿河(静岡県)の今
川氏と戦い、織田家の基礎をつくって信長の活躍する道を切り開いてくれました。

信長の幼名は吉法師で幼い頃は乱暴で乳母になる者は大変苦労しました。

若い頃は奇妙な行動をとることが多く「大うつけ」と呼ばれていました。

1538年 信秀は吉法師を那古野城の城主としました。

1546年 元服して名を三郎信長としました。

1547年 14歳で初陣。この年、松平竹千代(後の徳川家康)が織田家の人質と
なりここで初めて家康と出会いました。

1549年 美濃の戦国大名・斎藤道三の娘、濃姫が信長のもとに嫁ぎました。

1551年 18歳の時、父の信秀が亡くなり、万松寺での葬儀に信長は髪も整
えず袴もつけないで現われました。

そして、お香をわしずかみにして仏前に投げつけ葬儀も終えないのに立ち去って
しまいました。

1553年 信長のお守役だった平手政秀が自害した事で信長は行動を改め本来持っ
ていた才能を発揮していきました。

そして、斎藤道三と正徳寺で会見をした時、道三はうつけと呼ばれていた信長をうつ
けではなく大物になると思いました。

1555年 清州城に移りました。

1559年 信長は同族だった織田信賢を討ち尾張を統一しました。

1560年 桶狭間の戦いでは駿河の今川元義を討ち、勝利しました。

1562年 清州城で松平元康(徳川家康)と信長はお互い敵にしない方が良いと考
え同盟を結びました。

これを「清州同盟」と呼び、長い間守られました。

1563年 美濃の斎藤氏を攻めるため小牧山(愛知県)に移りました。そして信長の妹・お市を近江(滋賀県)の浅井長政に嫁がせまし た。これも斎藤氏を攻めるためでした。

遠い国どうしが婚姻することで間にある国を攻めることを遠交近攻といいました

1566年 美濃を攻めるために墨俣に城を造ろうとしますが美濃に攻められなかな
か進みませんでした。

そこで木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が地侍などを使い短期間で城を完成させました。

1567年 美濃の稲葉山城を攻め斎藤氏をやぶり、美濃は信長の支配下となりまし
た。

そして、町の名を井之口から岐阜へと変えました。これは岐阜に天下のものとなる町という意味があるからでした。

それから、「天下布武」という印判を作って自分の武力で天下をとろうと強い意志を示しました。

1568年 足利義昭をおし立てて京都に上りました。

そして、義昭を室町幕府の15代将軍としました。

1569年 ポルトガルの宣教師・ルイス=フロイスと面会し京都に居住する許可を出しました。

1570年 姉川の戦いでは信長と家康とで浅井・朝倉連合軍を討ち破りました

1571年 明智光秀が鎮護国家である比叡山を攻める事に反対しました。しかし、信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたため3日間燃え続け ました。

その時、僧や庶民は殺されてしまいました。

1572年 三方ケ原の戦いは徳川家康と武田信玄との戦いで徳川軍に援軍しま
すが兵数も少なかったため武田軍の勝利となりました。

1573年 15代将軍・足利義昭を追放し、室町幕府を滅ぼしました。

1574年 伊勢長島の一向一揆を滅ぼしました。

1575年 長篠の戦いでは信長と家康で武田勝頼を討ち破りました。

1576年 安土山(滋賀県)に城を築き、この年内大臣となりました。

1577年 安土の城下で信長は楽市・楽座を命じました。

1579年 安土城が完成しました。

1580年 石山本願寺を屈服させました。

1582年 天目山の戦いで武田勝頼を滅ぼしました。しかし【旧暦・天正10年6月2日】本能寺で明智光秀に襲われ天下統一を前に自害 してしまいました。

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